だらだらと

肉牛ってのは人からおいしいと食べられる為だけに生きて、それが牛にとって本意なのか不本意なのかは分からないけれど、牛に肉としての価値を与えた人間としてはその価値を大事にしてありがとうって気持ちで食わなきゃおかしいし、食われる為だけに生かされた牛が食われる為に殺されるのをかわいそうと思うのは、死という言葉に対して抱く感情としては間違っていないかもしれないけれど、その牛に対して食われるモノという価値を与えた人間として、そいつがこれまで生きてきた意味を全否定している感情でもある。そう思いつつも自らの手で牛を殺したりだとか鶏の首を締めたりだとか、いざやれと言われても躊躇してしまう自分は簡単に想像できるし、その時に心の中に沸きあがる感情は「かわいそう」であって、その感情は人として肯定したいし否定したい。例えばいきなりナイフ一本持たされて現代文明のない所、過去でもいいし世界のどこかでもいいけれど、そこに一人置き去りにされたなら、自分は迷わずエモノを探して殺すだろうし、その時に浮かぶ感情は「かわいそう」ではなく「やった!」という達成感と少しの「ごめんね」って気持ちだと思う。「かわいそう」っていうのは所詮は他人事、客観的にものを見ての感情で、十分に飯が溢れている現在の状況では、牛というご馳走を目の前にしてもそれは肉ではなく牛で、牛を殺す作業と肉を食う作業が自分の中でイコールでないからこそ、牛を殺すことをかわいそうと言えるんだ。人はお腹がすいている時に牛だの鶏だのを見たらウマそうだなと思うのが本来の姿。それは動物としてとても自然な感情で、死の上に生が成り立ってる事を十分に分かっているなら、食う為に牛を殺すという作業はかわいそうとか、まして残酷なんてものではなくなるハズだ。
何をだらだらと書いているんだろう。人間ってめんどくさいね。
生まれ変わるなら野生の動物がいいな。肉食でも草食でも生きる為に必死で追いかけて、逃げる。
価値だとか意味だとか面倒くさい。牛にまで肉牛には食われるモノって価値を与えて。
ペットは癒すモノ、鳥は夢を描くモノ、地球は愛すべき大切なモノで、人は知識をもった特別なモノ。
じゃあ私の生きる価値は何ですか?意味は何ですか?ってなっても特に何もないし。
何となく毎日やってりゃとりあえず生きてられる世界。
夢とか目標とかないの?何の為に生きてるの?って言われて、
死なない為に生きてるんだよって言ったら「何それ」って言われたけど、それじゃ駄目なのか。